知ることから、ケアは始まるのかもしれない。

先日、岡山で「介護基礎講座」を受けてきました。
今回のテーマは、「高齢者の障害とそのケアテクニック」。
介護の技術を学ぶ講座だったのですが、
私の中に一番強く残ったのは、こんなことでした。
「できる、できないの前に、まず正しく知っていることが大事なんだ」
知っていることで、防げることがある。
早く気づけることもある。
そんなことを考えながら講座を受けていたら、
ふと、母のことを思い出しました。
母が事故に遭い、身体に障害が残ったこと。
認知症の症状が出始めた頃のこと。
そして10年ほど前、老老介護を続けることを諦め、
私の近くのサ高住に入居してから、亡くなるまでのこと。
母の言葉が、いちいち引っかかってしまった。
思いがうまく伝わらなくて、泣きながら帰ったこともあった。
私も、母にきついことを言ってしまった。
今では、
「あの頃は、こんなこともあったなぁ」
と話せる思い出です。
でも今回、講座を受けながら思いました。
もし、あの頃の私が「老いる」ということを、
もう少し知っていたら。
認知症になると、どんなことが起こりうるのか。
身体にはどんな変化があるのか。
そんなことを知っていたら、
もう少し違う目で母を見ることができたかもしれない。
もう少し優しくできたかもしれない。
もちろん、知識があれば、
すべてがうまくいったわけではありません。
介護にも、人との関わりにも、
これが正解というものはないからです。
でも、
「わからない」ことと、
「知ったうえで、まだわからない」ことは、きっと違う。
そんな気がしました。
高齢になると、どんな変化が起こる可能性があるのか
基本的なことを知っているだけでも、
見えるものは変わるのかもしれません。
「なんでこんなことをするの?」
と、自分の物差しですぐに判断するのではなく、
「何かあるのかな?」
「いつもと違うのかな?」
「本人はどう感じているんだろう?」
と、一度立ち止まる。
わからないことは、わからないまま置いておく。
そして、聞いてみる。
表情を見る。
行動を見る。
言葉だけではなく、その人全体を見てみる。
これは、高齢者に限らないことですよね。
親子でも。
夫婦でも。
友人でも。
仕事でも。
私はこれまで、多くの福祉法人で働く方たちの研修をお手伝いしてきました。
皆さんは「利用者さんのために」と、真剣に仕事をされています。
その一方で、心も身体も疲れている人たちを、何度も見てきました。
だからこそ、
ケアする側の人自身が、自分の心や身体を知っておくことも、ケアの一部なのかもしれない。
今回、介護の基礎を学んで、
改めてそんなことを感じました。
そして、ちょっと嬉しかったこと。
講座の中で、何人かの若い方から、
「手がきれいですね。美容プロですか?」
と声をかけてもらいました。
10月からビューティタッチを学ぶことを決めてから、
自分でハンドケアを始めて、ちょうど2週間ほど。
「まず自分のケアをしなきゃ」と話していた皆さんに、
実際にやってみて感じたこともお伝えしました。
少しずつ変わっていく手。
そして、手をケアしていると、
気持ちまでウキウキしてくる。
そんな小さな情報を、
お互いに交換できるのもいいなと思いました。
自分を知り、自分を大切にすること。
一人で抱え込まず、誰かと知恵や経験を分け合うこと。
それもまた、ケアなのかもしれません。
今回、介護の基礎を学んで、私がこれまで考えていた「ケア」が、
少し違って見えてきました。
ケアは、何かを「してあげる」ことだけではない。
知ること。
気づくこと。
相手を決めつけずに見ること。
自分自身を知ること。
必要なときには、人の力を借りること。
そして私たちは、つい「正解」を求めてしまうけれど、
知識を得ることで、答えが増えるというより、
問いが増えていくこともある。
「じゃあ、この人の場合はどうなんだろう?」
「私は今、何を感じているんだろう?」
「ほかには、どんな可能性があるんだろう?」
そんな問いが生まれて、考える幅が少し広がっていく。
だから、
知ることは、答えを得ることではなく、
「わからない」を抱えたまま、もう一度その人を見るためのものなのかもしれない。
介護について知ること。
そして、自分自身について知ること。
その二つを手に、
目の前の人を、もう一度見てみる。
知ることから、ケアは始まるのかもしれない。
10月からは、いよいよビューティタッチの学びが始まります。
「触れる」というところから、
人の心に近づいてみる。
そこに、今回学んだ介護の知識や、
これまで学んできたアドラー心理学を重ねたら、
どんなものが見えてくるんだろう。
まだ、私にもわかりません。
だからこそ、楽しみです。
まだ名前のないケア。
少しずつ、見つけていきたいと思います。



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